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んでもってRemember。米朝の「地獄八景亡者戯」。シモネタっぽいマクラから、名人上手の看板の中に「ん?桂米朝、近日来演?」なんちゅうくすぐりまで、NHKのおかげで思い出させて貰った。私のTV視聴のNHKシェアは相当高い。受信料拒否する資格はないわな。

e0001663_18423596.jpgLP裏表二枚組の大ネタ。今は亡き旧友T田君と京都安下宿にて繰り返し聴く。まだそんなに枚数持ってなかったから、おんなじネタを何回も何回も・・・おんなじとこでおんなじように笑う。のちに枝雀で聴いた時、はじけて素晴らしく感じたのも、教科書としての米朝あってのことと思う。

なっつかしいなぁ、CD買うてみよかなぁ・・・。
昨日のこと。町田より古い知人が我が社を訪れてくれる。古きも古し、ほぼ30年の知己。20代半ばの私は山梨で結婚式場を作っていた。知人M氏はそこの学生アルバイト。深夜、東京へ戻れなくなり、彼女とデートで東京へ向かうM氏の車後部座席に便乗したのが出会いだった。「いいことしてやがんな」といじけるお邪魔虫。

その後、T市で竣工した式場の最初の結婚式でめでたっくモルモット替わりを勤めたのがM夫妻、私は舞台裏でやはりいじけていた。不毛の20代・・・あ、30も40もか。

e0001663_0204811.jpgま、書き始めると長くなり過ぎるし、プライバシーにも関わるので省略するが、その後のM氏、波瀾万丈を絵に描いたような、まさにどん底から頂点までのジェットコースター人生。その中でも最大の人生の岐路が目の前にあると、相談にいらしてくれたのだ。どん底と頂点を両方見てたのは私だけだと仰ってくれ、男冥利ここに尽きる。

さりとて、私ごときの拙い人生経験では、さほど実のあるアドバイスができるわけでもなく、一緒になってうぅぅむと悩み、結果、思い切り背中を押してしまった。・・・良かったのかな?

場所は銀座のBRICK。ホテルマンとしてキャリアを積んできた彼の洋酒の知識はプロ並み・・・ではなく本物のプロ。名前の解らぬ注文に付き合って、思わぬ美味しい思いをさせていただいた。・・・おそらくは荒波に向かうことになると思う。心より健闘を祈る次第。
本日お昼に、携帯メールで大学同窓のN君の訃報を受け取る。昨年11月のT君に続き、僅か三ヶ月で二人の命を癌が持っていった。

50代半ば、癌年齢としては十分に若く、進行は早いと聞くが、N君も手術成功の報を聞いてからたった一年余。どのような想いを胸に逝ったかと、無念極まる。

癌なるもの、病と言うより人間という存在の業みたいなもので、他の死因無くば、人は必ず癌で命を落とすと聞いたことがある。但し、その時の享年は140歳だとも。…まだたった4合目、無常なり。

心よりご冥福をお祈りします。
こんな写真載せていいのかどうか・・・色褪せてる上に縮小してあるからまぁいいか・・・ダメだったら誰か言ってね。
e0001663_21134525.jpgT田君と言えば山行が連想される。極めてタフな山男。七難八苦をものともしない、と言うより七難八苦を呼び寄せる男であった。写真は上高地側より前穂高に挑戦した時のもの。11月だったか、私にとってはほぼはじめての山行。既にベテランだったTをリーダーに仰ぎ、未明に勇躍岳沢を駆け登る・・・駆けてはいけないのだな。

行ってみると、およそ初心者にはご無体な雪山と化していた。リーダー全く予想していなかったと見え、誰も冬支度なし。写真は撤退時に記念撮影したものだが、左下にごちゃっと固まって写ってるのは、もう一歩も動けなくなっているから。

何年後か、やはりTに誘われ剣岳へ。真夏の8月、よもや雪に追い返されることは無かろうと、勇躍室堂より登攀開始・・・中腹まで至る前に豪雨到来。進路を変えた台風の直撃に会ったのだ。道がすっかり無くなる中で、道を無視して直登を図るT。・・・私の脚力ではとても付いてゆけず、お願いして剣沢小屋(だったかな?)に避難。そのまま剣は断念、翌日、立山縦走して帰途に着いた。・・・あとで聞くと集中豪雨で道路完全遮断。山に孤立してたのであった。

結局、Tとの山行は登頂成功無し。他でもずいぶんな武勇伝を重ねたと聞くT、雪も嵐も呼ぶ男であった。
この前書きかけの思い出さらさら、続きです。古いアルバムを引っ張り出して、色褪せた写真をスキャン。18歳の少年三人砂丘に遊ぶ、の図。ちょっと恥ずかしいが思い切って掲載。真ん中が亡きT君。変わってない。18×3=54・・・この3人分を合わせた年齢になっているのだなぁ。
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何かとTとは「初めて」モノに縁があった。この旅も学生になって初めての旅。入学まもなく一緒に行った新京極の寿司屋。家族以外との初寿司屋。・・・当時はまだ回転寿司は登場しておらず、学生向けの安寿司屋でも、ちゃんとカウンターで注文して食べるシステム。皿には乗ってたけど、大人気分。

すべてにおいて「質より量」「大は小を兼ねる」が身上?のT、「こういう店ではな、大将の顔が見えんようになるまで皿積まなあかんねんど。」と私を導く・・・安いネタばかり頼んで、大将の顔が隠れるどころか、自立できなくなるまで積んだっけ。一皿4~50円位とは言え、貧乏学生が何故そんな金を持ってたのかは記憶に無い。
あれから10日が過ぎ、なんとなく旧友T君との思い出でも書いてみようか、という気になった。

出会って35年、決して密な付き合いをしてきたとは言えない。生活の地が東西に別れたこともあって、ここ十数年は一年に一度会うかどうか、何年かは年賀状すら交わさぬ空白の期間もあった薄い間柄。亡くなってみて、初めて旧友旧友と語るのも幅ったく、ホントに親しく交遊した方に申し訳なく思う。

何年ぶりかに会っても、開口一番昨夜の野球の話を始めるような奴。実はずっとそこに居たような気のする奴。死んだような気がしない、のは、そんなところから来てるのかな?思い出は、ぼろぼろならず、さらさらなり。

大学入学したその夏、彼を含めて4人で旅に出た。まだ少年の香りが残る18歳、流行のヒッチハイクや自転車旅行では面白くない、山陰道を京都まで徒歩で踏破しよやないかと、夜行列車で萩へと向かったのだ。

事前に奈良まで練習したところ、「一日40kmくらい行けるで♪」と、全工程を40kmで割って立てた工程。宿泊は全部駅、なんとかなるで・・・と。炎天下のアスファルト徒歩旅行。40km/日なんてまるで行かぬまま一週間もたずに挫折。今思うと、Tとの旅は、いつもこのパターン。挫折率100%のパートナーだったよな。
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初日に萩のタクシー屋さんに泊めてもらったのを皮切りに、宿泊費ゼロを貫く。当時の国鉄、駅のベンチで寝る若者にもとても親切で、始発前に「そろそろ起きろよー」と声を掛けてくれた。旅の最後、鳥取砂丘に野宿、朝起きて入場料取られたのが唯一の宿泊費だったのが、なぜか悔しかった記憶。たぶん¥200くらい。
先月大阪に見舞ったばかり。まだ意気軒昂で、病と闘う気力未だ衰えずと信じていた。わずか1ヶ月前の間に容態急変、危篤の知らせに急ぎ帰阪する途中、畏友T君の逝去の知らせを聞く。一時間、間に合わなかった。

死去間もなくとは思えぬ、今にもこっち向いて語りかけてきそうな死顔。鹿島の鉄人と呼ばれた男の、余りに早い最期に、限りない無念さと、35年分の感謝を込めて合掌する。

本日これより通夜の儀に向かう。いずれ落ち着いたら、ゆっくり思い出話でも綴ろう。